20年ぶりの新札の発行で、巷では久しぶりにお金の話題で盛り上がっています。
千円札の肖像は北里柴三郎氏、五千円札の肖像は津田梅子氏、一万円札の肖像は渋澤栄一氏(右の写真)とのことです。
渋沢栄一氏は明治時代には近代資本主義の父と呼ばれましたが、江戸時代に一橋家に仕えたときに藩札の発行に関わっています。
そこで、渋沢栄一が発行した藩札について紹介します。
1 渋沢栄一の略歴
渋沢栄一は1840年(天保11年)、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父親に学問の手ほどきを受け、論語などを学びます。
時代は開国か否かをめぐって尊王攘夷論が高まる中、尊王攘夷の思想を受けた栄一たちは従兄や同士と高崎城の乗っ取り計画を立て武器を集めていましたが、説得を受けて断念。勘当される形で流浪の身となり、京へ向い志士などと交流を深めます。
その後、以前から交流のあった一橋家の用人平岡円四郎の口ききによって、一橋徳川家(一橋慶喜)に仕官します。
2 一橋家で才覚を発揮
一橋家では奥口番(出入り口の番人)という低い身分からスタートしますが、才覚を発揮し、御徒士、小十人へと出世します。たとえば一橋家は8代将軍徳川吉宗の四男宗尹を始祖とし、徳川御三家に次ぐ御三卿という家格でしたが、重役は徳川宗家からの出向が多く、他藩と異なり、軍備がほとんどない状態でした。
しかし、一橋公が禁裏御守衛総督に就任していることから、栄一は軍備を整える方策について進言を行うと、その責任者に命ぜられ、領内を回って領民から兵を公募し500余名を集めることに成功。
それらの功績が認められ、勘定奉行に次ぐ勘定組頭(財政・会計担当の役職)に任命されます。
従来、出世をするためには門地や格式が重視されましたが、幕末の動乱に向かって刻々と状況が変化する中で一橋家でも能力のあるものを登用するという姿勢が見受けられます。
3 藩札を発行
江戸後期の各藩は財政の悪化に苦しみましたが、一橋家も例外ではなく、収入を増やす必要があり、栄一は勘定組頭として、財政を豊かにするために
①米の売り方を改善する
②播州の木綿反物を名産品として売るための仕組みをつくる
③備中に硝石製造場をつくる ことを進言し取り組みます。
このうち、②の木綿反物を売るための仕組みとして藩札の発行がありました。(一橋家は藩ではありませんが、一般的な呼称として以下「藩札」といいます。)
藩札は当時の多くの藩で発行されていましたが、他領では通用しない、引換しづらい、札の表面に書いている額より低い額でしか取引できないなどの問題があり、多くの藩で藩札の信用が地に落ちている状況でした。
栄一は藩札の価格が低落した原因は引換元金が不十分であることに着目して、資金を十分に用意して運用を始めたため、弊害が起こらずに便利に使われました。
写真は一橋時代の栄一が発行した藩札です。
左から播磨国高砂今市村(兵庫県)壹分預手形、貮分預手形、五分預手形、壹文目預手形、五文目預手形、拾文目預手形です。(有賀健三氏所蔵)
以上の六種が渋沢栄一が発行にかかわった藩札です。一橋家では、その後も写真以外の札を発行していますが、栄一が職を離れた以降に発行したものです。
4 札取引の流れ
藩札発行の方法については自伝で詳しく述べおており、会所を播磨国(今の兵庫県)今市村に設置。周辺の領地で生産される木綿反物を、藩札を発行して買い上げ、大阪の問屋に送ります。大坂川口に立てた問屋はこれを売りさばき、その売上代金は大坂にある会所の出張所へ納めます。木綿の販売代金は今市の会所で生産者の売上に応じて藩札を渡し、後に生産者の申し出により藩札を現金に換える仕組みとなっています。引換元金(手元資金)は今市と大坂の2か所に分け、大坂の資金は大阪の豪家(一橋家御用達の商人)に預けておくことで利息によってお金が増え、一方品物が回転して余計に取引ができるというメリットがありました。また、藩札の製作資金等はこれらの御用達商人に負担させ一橋家の負担はないということで、これらの記述からも栄一の才覚が伺われます。藩札の発行高が三万両を超え、木綿の売買が順調に流れ出したところで、栄一は京に呼び戻されます。
※参考
雨夜譚(渋沢栄一自伝)岩波文庫
現代語訳 渋沢栄一自伝 平凡社
1 はじめに
2018年頃に状態の良い慶長小判を古銭商の店頭で多く見かけました。これは約5年前に関西の方から大量に出たものです。未使用で無刻印のものが正確な数は不明ですが、200枚以上出て来たそうです。
400年間眠り続けてきたのが、奇跡的に蔵に納められたままで出てきました。いっしょに慶長一分金もかなりの枚数が出ました。何百枚という一分金です。これは状態がよくないのが大半でした。その中の一部に額一分金と初期の古慶長一分金できれいなものが混ざっていました。 これらの小判等が退蔵されたのは1608~1610年以降ではないかと考えられます。というのは1608年頃に京座と駿河座ができていますが、それが入っています。ですから1608年以降に退蔵されたのは確実です。同じ場所に美術品、鎧、兜もあったということで、想像すると大判をもらっているので大名クラスというより、手柄をたてた武将、それもかなりの武将だったのではないかと思います。初期と前期というように私は慶長小判を分類しているのですが、1割ほど初期が混ざり、あとは前期です。
私は古金銀の収集を行ってきましたが、今回まとまった数の慶長小判を入手しました。
ここで発表する慶長小判の分類法は、先人の研究を勉強して私なりに解釈をしたものです。
先人としては、東京大学の西脇康先生、銀座の研究で有名な故田谷博吉氏、各座の分類を行った故こばしがわひでお氏、古銭商として慶長小判を研究し『収集』にも発表された故丹野昌弘氏らがいます。
この方たちの著書、論文を勉強して分類したのですが、先生によって多少のズレがあります。
けれども今回大量に出たことによって、証明された事もあります。たとえば、額一分金は慶長15年に大坂で造られたものだと考えられていましたが、今回出た中に額一分金があって、額一分金から造り直した一分という字が薄く残っている慶長一分金もありました。
慶長一分金は1599年に造られていますから、1600年の関ヶ原の戦いから1~2年たって打ち直したのだと思われます。
1600年は慶長5年ですので、慶長7~8年頃には打ち直したと推測できます。
すると額一分金は慶長15年よりだいぶ前に作られたことになります。こういう事がよくわかってきました。 この時代の貨幣を研究する上で、一番残念な事は、後藤家の資料がほとんどないことです。
というのは江戸では1657年に明暦の大火がありました。その時に奥金蔵、いわゆる江戸城の二の丸の金蔵も全部焼け落ちた。約390万両の金塊が溶け落ちた。後藤家の資料も大名屋敷(今の大手町あたり)も全部焼けて資料がありません。 ですから推測や仮説でしかないので、いろいろな考え方が出ています。
これが正しいという事がはっきりとわかりません。
年号についても数年のズレが出ているかもしれません。それをどう評価していただくか。でも今回の資料によってある程度形ができたということもあり、すごい進展だと思っています。
分析にあたり考慮したのは、当時の人たちはルーペで小判を見ていないということです。
肉眼で見ている。ですから両替商でも後藤家でも、肉眼でみてこれが何座だとわからなくてはいけない。
基本的にはちょっとした秘符でそれがわかるようになっていると思います。
1-2 分析の順番
分析の順番ですが、今まで日本貨幣カタログでは京座、駿河座、江戸座、佐渡座と分類してきましたが、皆さんこれらの違いがわかりますか? それを今回整理しました。
私は初期、前期、中期、後期の四つに分けました。こばしがわ氏、丹野氏の資料を継承しております。現物を複数入手して観察・分析しました。貨幣カタログでは駿河座について、目が細かいのが駿河座であるとされていますが、はっきりとしたことはわかりません。駿河座は前期だけです。たった6年しか造っていません。1608~1616年の間に造っています。徳川家康が駿府にいたときです。6年のうち、実際に造ったのは最初の2~3年です。慶長小判は95年間流通しており、駿河座はその間ずっと存在していたような感じになっていますが、たったの6年です。
佐渡座での鍛造は中期の数年だけです。1616年から1657年の前までが佐渡座です。ですから座で区分するのは間違いだと私は思います。まず古いのか新しいのか、近代銭でも古いものから新しいものへと来ているように、慶長小判は95年間流通していますので、その間古いのか新しいのかということをまず分類して、そこから古い江戸座はどれ、新しい江戸座はどれというように区分すれば整理できると思います。今までは座だけが先に進んでいました。4つの座に分かれているのはなぜかというと江戸時代の書『金銀図録』からきています。これについては後ほど説明します。
次は後藤光次の経歴を説明します。
2-1 後藤光次(庄三郎)の経歴
後藤光次は元亀2年(1571)京都で生まれました。本名は橋本庄三郎です。庄三郎の父、藤左衛門は近江国坂本の生まれで近江の京極高清氏に仕えていました。
兄弟は四男三女で、長男彦四郎が早逝しました。次男、三男は口減らしのためお坊さんになれば食べるのに困らないということで仏門に入れられます。末っ子四男の庄三郎が家を継ぎました。当時たまたま彫金鋳貨を事とする後藤家が雑人を大量に求めていました。まだ、織田信長が存命の頃で、後藤家はその御用達でした。 文禄2年(1593:文禄四年説あり)22歳で、京都(一説に聚楽第)で初めて徳川家康に御目見えしていますが、22歳で家康にお目見えできるでしょうか。これは本当がどうかわかりません。一説に文禄4年という説もあります。家康の派遣要請に応じて、同5年(1596)宗家徳乗の名代として徳乗の弟長乗に従って江戸に下向しました。当時庄三郎は26歳。 長乗は病気を理由にほどなく帰京しましたが、庄三郎はそのまま江戸に留まり後藤の名字と徳乗光基の光と実名の一字をもらい光次と称えます。
扇枠に五三桐紋の験極印の使用を許され、同四年から徳乗の名代を勤めました。
光次(庄三郎)は江戸の亀橋(現在の丸の内付近)に屋敷をもらい、そこで一枚の重さ4・4匁、4・5匁という説もあります。の「武蔵墨書小判」を造り始めました。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、直後に家康が発した制礼を京都へ持参する任を勤めたといいます。駿府の大御所政権では、常に家康の「御側近」「御側(おそば)御用(ごよう)」として取次の任を勤めました。
外交・財政顧問としては、側近の本多正純、長崎奉行の長谷川藤広などと同格あるいはそれ以上の権限と待遇が与えられ、慶長6年(1601)には御金銀改役に任命されます。これは重要な業務です。金座においては判師、品質検査、墨判の極めから極印まで監督する最終責任者になりました。
慶長5年(1600)関ヶ原の後、長乗は後藤家の当主となります。(京都勘兵衛家)。兄の徳乗は西軍の石田方についたため、歴史の表舞台から消されました。
それより前の慶長元年(1595)庄三郎は猶子(ゆうし)となります。猶子は一代限りの養子のことで、財産などの相続を目的としない。後藤の姓を名乗ることができるのは庄三郎のみ。男子が生まれても後藤の子ではなく、橋本の子になる。 ここで猶子と養子が出てきます。いろんな文献を調べると最初猶子と出てきます。そして養子とも出てくる。どこが違うかというと、ここに慶長元年の日付が入った文面が残っています。猶子というのはかなり厳しいです。一代限りです。後藤と名乗るのは光次たけで、光次の子が生まれても後藤とは名乗れない。
その文面は別表1のとおりです。
【別表1】 一 大判に「後藤判」(拾両後藤)とは書かぬ事 一 大判に桐の極印は致さぬ事 一 猶子の謝礼として毎年黄金三枚ずつを子々孫々に至るまで献納する事一 右の条に違背したら、後藤に関する全ての役を免ずる
つまり、大判の鋳造は禁止。後藤の名乗りは一代限り 一、大判に「後藤判」(拾両後藤)とは書かぬ事 一、大判に桐の極印は致さぬ事 なぜ後藤が桐の極印を出来たかというと別表2をご覧ください。後藤宗家の大判は桐にマルです。小判は桐に扇ですから桐に扇はだめだとは書いていません。そこで光次は扇にしたのです。 また、菱大判になっている後藤家、これは大阪の菱後藤家の祐徳ですが、桐にひし形で、桐にマルはだめだと書いていないということで、桐に菱になりました。
一、猶子の謝礼として毎年黄金三枚ずつを子々孫々に至るまで献納する事 一、右の条に違背したら、後藤に関する全ての役を免ずる 光次はなぜ猶子から養子になったのか?養子の方が猶子よりはるかに待遇がいい。ずっと後藤と名乗ることができるからです。猶子は一代限り、すごく厳しい。養子になったのは「関ヶ原の戦い」が原因です。
関ヶ原の戦いの時、後藤宗家、京都大判座は西軍につきました。後藤徳乗、栄乗は石田方につきました。しかし光次は1596年に江戸に下向して徳川に仕えましたので、関ヶ原の折りも徳川方につきました。そして東軍が勝ったので、立場が逆転した訳です。後藤長乗より後藤光次の方が偉くなってしまった。ですから慶長14年から15年くらいの古文書をみると、光次は京都にいる長乗にたえず書状を送っています。「大坂城の分銅を溶かして棹流金にしてどんどん大判を造れ」とか、目上の人に指示しています。立場が逆転しました。 2―2 猶子(ゆうし)から養子へ
光次は家康の絶大な信任のもと、金座、銀座、銭座を配下におき、金銀貨の製造、管理にあたっただけでなく、全国的に直轄鉱山の監督を行いました。先ほどお話したように関ヶ原の戦い以降、光次の序列関係が逆転し、光次は長乗を自らの傘下に編成することによって極印権を実質的に行使できるようになりました。
寛永2年(1625)7月23日、江戸で没。享年55歳。墓所は江戸浅草の誓願寺にあります。
晩年は老眼で、あまり眼が見えなかったようです。「女中に両手を引かれながら」という文言が残っています。ほとんど盲目の状態で55歳で亡くなった。これが光次の経歴です。それと菱後藤家と称された大坂の一門、前身は銀座とみられ、当時は諸口の灰吹銀を独占的に集荷して銀両替も兼業していたと思われます。片桐且元、豊臣方の京都奉行です。良安、乗訓、乗以が大判勘定で、おそらく後藤祐徳をみると、宗家に排除されたか、後藤宗家がかなり権利を奪ったということも西脇先生の文献に書いてありました。ただし祐徳、菱後藤家はなくなったのではなくて、そのあともお上に携わっております。ただ大判造る権限がなくなったということです。
後藤家はもともと足利将軍に仕える彫金師の家主の元で装剣に従事しています。金工技術は室町時代以降、織田信長、豊臣秀吉から重用されました。
3-1 後藤家の系図
次に支配関係ですが、徳川家康、光次は江戸にいます。江戸の光次の名代は14代まで光次という小判を造っています。京座にも手代を派遣しています。庄六と四郎三郎、これは支店みたいなものです。
当時の1670年か71年、江戸座の棟梁は6名です。うち2名が佐渡に赴任しています。京座の棟梁も6名です。最盛期には江戸座の副棟梁は37名を数えます。京座は6名と少ない。37名に対して6名ですから元禄~文政、天保あたりだと思いますが、ほとんど江戸がメインです。京都はほとんど小判を造っていなくて、包金 封金の役目、直し小判の仕事しかしていないと思われます。
支配関係ですが、別表3に年齢表があります。慶長15年に光次は42歳、徳乗の娘と結婚しています。徳乗の倅が栄乗ですから、栄乗の妹と結婚している。栄乗39歳なので、妹は30代後半と予想されます。
【別表3】 ◆慶長15年(1610)の関係者の年齢
徳乗 63歳(歿年:84歳)
長乗 51歳(歿年:55歳)
栄乗 39歳(歿年:44歳)
光次 42歳(歿年:55歳)
3-2 包金(つつみがね)
次に包金ですが、文献を読んでいきますと当時、切れ、折れ、割れ、軽め小判がすごく多かったことがわかります。両替商で振るって落ちなければ流通してしまうという。直し賃を払えば新しい小判に取替ることができますが、一両小判をお金を払って一両小判に交換する人はいません。
時代が違いますが、「もりそば二杯くらいのお金を払って新品と交換してもらう」という文面がありました。 当時の川柳に「封切ると、小判百両伸びをする」というのがあります。小判は和紙に包まれていますが、カチっと何重にもくるまれています。ですから包をポトっと落としたくらいでは割れません。時代劇で包を落として紙が破れて小判が散らばるというシーンを見かけますが事実ではありません。何重にも和紙でくるんである。落としてもびくともしないのが包金です。私は一分金の25両の包を以前、内外貨幣研究会に持参して何回かカッターナイフで皆さんがいる前で開けましたが、紙が何重にもなっていて開けるのが大変でした。小判も同じように厳重に包まれていますから、寸法の多少大きいもの、小さいものがありますが、大きいもの端がつぶれて曲がってしまうのではないかというほど厳重に包まれている。今回大量に出た小判の中にも縁がつぶれている小判があったと聞いています。
さきほどの川柳は「封をきるとがっちりと押さえつけられてた小判が伸びをする」という意味です。
他にも「光次のうろたえものはえり出され」は損傷小判は嫌われものだという意味です。
「切れ小判は花にやったで得なよう」これは遊女にやれば得をした気分という意味です。
「光次は造ク切れぬが宝なり」、これは切れない新品がお宝だという意味です。両替仲間の間では百両の包封小判のうち、切れ小判を必ず70両入れるという義務があったほどです。
元文、文政小判の時代だと思いますが、そういう状態で包まれていたようです。
これも参考ですが、1657年に明暦の大火があり金蔵の金銀が溶けて、翌1658年から1660年まで小判にして390万両の金銀に吹き分けられました。2年ちょっとで吹き替えをしています。
他の小判を見ても元禄小判の吹き替えは5年、宝永小判の吹き替えは2年、元文小判の吹き替えは4年で、2~5年で大半の小判を造ってしまっています。
長期に渡ってずっと造っている訳ではありません。最初の数年でほとんどの小判を造っています。
4 金銀図録
『金銀図録』は文化7年(1810)近藤守重(近藤重蔵)が編纂しています。近藤守重(1777~1825)は蝦夷地の探検家・書誌学者で文化5年(1808)には書物奉行になった人物です。
古金銀を見る機会も多く、部下に多数の拓本を集めさせました。 この本は慶長金貨が使われなくなって100年たってから発行されています。今でいうと100年前は大正時代、その頃使えなくなって、平成30年に本を発行したことになります。その間に各座は人伝えなのではっきりとわからなくなっています。ですから、『金銀図録』に掲載されているものの中には当時の工芸品も混ざっています。
『金銀図録』に掲載されている古甲金は90%以上が贋物だと思われます。
座としては佐渡座がなくて、江戸座、京座、駿河座。『日本貨幣図史』昭和39年(1964)では小川浩氏が踏襲して、江戸座、京座、駿河座、佐渡座となり、それを元に貨幣カタログが今に至るまで4座で分類しています。これは間違いです。できれば今回発表したことによって貨幣カタログが各座ではなくて、初期、前期、中期、後期という形で業者の方で変えていただければ少しでも事実に近づくことになるのではないかと思います。
5 真贋について
真贋についてお話します。まず金の純度ですが、資料のように、いろいろな小判で金の純度が全部違います。現物を分析しないとわかりません。各先生方によっても金の含有量の数値はまちまちです。ですからどれが本当なのかわからない。人によって匁も違うし、金の含有量も異なっています。どれが正しいのか私にもわかりません。 ただ言えることは、天正大判など古いものはそんなに金質はよくないということです。70%くらいです。蛭藻金なども黄色いので70%位ではないかと思います。慶長小判はおよそ84%になっていますけれども、一つ目の真贋の目安として1600年前後の古鋳判の分析をして金質がいいと疑問符だと思います。これから金の成分分析が進んでいくと思いますが、成分分析して古鋳判の含有量が84%などになったら、ちょっと疑問符です。また、駿河墨書小判と古鋳判で元和期にかけての一匁は3.73g、それ以降は3.75gです。一匁の重さが違います。ですから元和期前のものであるのに3.75gで計算して造られているものは贋物だと思います。
これも一つの目安になります。金の成分分析と一匁の重さが真贋を見分ける目安になります。
二つ目は京目と田舎目(江戸目)がありますが、京目が4.5匁、田舎目(江戸目)が4.7匁です。田舎目は運送手数料がかかるので、0.2匁の割り増しを加えて4.7匁に計算しています。ですから江戸の小判のほうが若干重い。これもどちらで造ったかによって匁が違ってくるので一つの目安になります。
三つ目の着眼点は、当時の技法、造る工程、決め事、特徴をまず知るということです。
一定の法則、共通点があります。決まり事です。刻印の打順が合っているか、これが間違っているものがある。光次の刻印、ここに棟梁の刻印を打刻して、その後に槌目を打ちます。古いものは光次の字に重なって打たれていますが。これがないものがあります。
こういうものは後で刻印を打っています。順番が違います。これも本物・贋物の見分け方になります。時の流れと共に変化をしていく、すべて共通点があります。古いものから新しいものへの流れがあり、まず流れを頭に入れておく必要があります。 また、古い文献に載っていても本物でないものがあるので要注意です。甲州金などがそうです。品物が文化遺産なのか美術品なのか工芸品なのか骨董品なのか?贋物にも当時の贋物と最近造った贋物があります。
田中啓文氏のコレクションには4千冊以上の文献、図版、地図類もあります。貨幣に関するものは十万点を超えていました。空襲で焼失しないように日銀の貨幣博物館の地下室に納めました。リヤカーで何回も運び、3週間かけて地下室に避難させたそうです。個人のコレクションですから贋物も混じっているかもわかりませんし、それが貨幣博物館の本に掲載されています。貨幣博物館の資料に掲載されている古甲州金などはほとんど疑問視されるものが混ざっているように思われます。小判も同様です。ちょっと残念です。文献に載っているからといってむやみに信じないことが重要です。
6 桐紋・花押について桐紋と家紋について説明します(用語については左図参照)。 豊臣家の紋、天皇家の五七の桐を意識させる紋で、全国支配の象徴でした。桐紋は後藤徳乗の発案であると伝えられ、後藤家が独占的に製造してきた黄金の貨幣です。 徳川の世になり、徳川の紋である葵に変えるように要請がありましが、後藤家は強大な経済力をもって抵抗しました。 花押には草名、二合体、一字体などがあります。 花押から説明します。小判の中央下の部分に花押がありますが、ここに「はしもと」が隠れています。小判出来の後、分判で来るよし、初出来る分判八、表に刻印打ち、裏に光次とのミ極印ありけるにとあります。ミ刻印、ミの極印といいます。
左上の小判をご覧ください。花押の中に「はしもと」が入っています。どの部分が「は」、「し」、「もと」にあたるかを中央の図で太字で表してみました。 右上にある裏の花押、ミの極印についても「ミつ次」が入っています。どの部分が「ミ」、「つ」、「次」にあたるかを中央の図で太字で示してみました。初期の一分金を見ると光次はかなりここを強調しています。 これが正解かどうかわかりませんが、私は何度も書いてみた結果、こばしがわ氏が発表したものと若干異なりますが、こうではないかと思います。
7 慶長小判の製造年別分析 下記別表5の分類表をご覧ください。
初期、前期、中期、後期に分けました。丹野氏やこばしがわ氏の分類法を踏襲しています。初期が1600年、古鋳小判といいますが、鋳造ではありません。かといって古鍛小判というのもおかしいので、古慶長小判と言わせていただきました。1600年は裏A、羽のないやつです。この分類は一分金も全部一致します。初期、前期、中期、後期、すべて一緒です。各座はあっているかどうかわかりませんが、初期は江戸座だけです。小判座です。
1608年に京座、駿河座ができました。その時からいろいろな光次が出てきます。これはずっと一貫して同じですから江戸座ではないか、と推測できます。 それ以外のものでは、佐渡座はわかりました。五三の桐と二と八のところ、十と四のところにぼっちがあります、佐渡で打ち直しをしたのではないかと考えらます。佐当、佐神は全部佐渡座の刻印ということに断定しました。
佐渡座は慶長期に5万枚しか造っていません。非常に少ない。1年間に百枚くらいしか造っていない時もあります。そうすると江戸座と佐渡座は消去法で決まる。あとは「大坂城の中でも小判を造っている」という文献が出てきます。それはどれかわかりません。残りが京座ではないかなと思いますが、これは間違っているかもしれません。こばしがわ氏は光次の離れているものを駿河座と分類しています。丹野氏も同じです。それはそのまま駿河座ではないかなと思われますが、確証はありません。前期はいろいろな小判に光次がきます。中期は裏の刻印が二ケ打ちです、前期と初期は一ケ打ちです。後期は明暦以降で、荒目が後期です。参考までに、下記に過去30年間に銀座コインオークションと江戸コインオークションで出品された慶長小判を各座に分けてみました。
今回のセミナーを契機に貨幣カタログが各座ではなくて、初期、前期、中期、後期という形で表示を変えていただければいいと思っています。今日お話した分類法がすべて合っているかいないかはわかりませんが、ご意見、ご教示いただければと思います、それによって今後も研究を進めていきたいので、よろしくお願いします。
日本貨幣協会副会長・汐留古泉会会長 小川隆司
※本稿は、平成30年4月28日、東京国際コインコンヴェンションで行ったセミナーの内容をベースに作成しています。(編集担当)
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